20歳の時、というか20歳の誕生日を迎えた時、自分が見る世界がガラッと変わった感覚。
あれ、憶えてますか?
こんなもんか、って思った人もいるはずだしそこは色々あると思いますが、
僕の場合はそれはもう凄い変化でした。
放し飼いになった気分でした。
できることの幅が広がって、責任がつきまとうようになった。
20になった日の、夜、
朝かな、、、?笑
すげー気持ちいい風を吸い込みながら、思いっきりそれを感じ込んだ記憶があります。
本当にどうしようもない大学生だった。
友達や先輩後輩、親にも迷惑も掛けまくってきた。
だから、死ぬほど自分と向き合って、自分一人で人生を考えました。
軸を考えたんです。
ハンバーガーの真ん中に刺さってるあのアルミの棒みたいな。
五重の塔の柱みたいな。
当時の自分でイメージできる限界の年齢だった、50歳までとりあえず一本通したって感じです。
50にどうなりたいかを考えて、まぁ夢はあったので、そしたら簡単にマイルストーンができました。
まぁ6年ごとにセーブゾーンがあって、それらは決まってるから、そこまでは転んだって遊んだってサボったって行きすぎたって大丈夫だな、って考えてたてた感じですね。
何で6年なのかは、長くなるので割愛です。
26歳
32歳
38歳
44歳
50歳
これら5つのフェーズでどうなってるかは、決めてます。
今日は第一章。
26歳の時にどうなってるかって20歳の時に決めたわけなんですけど、
まぁこうですね、
「生業」
まだいきぎょうとか読む人います?
そーゆー人大好きですよ。
生業ですね。なりわい。
26歳の時に生業をしていれば、
20-25は捕まんなければどうあってもいいかなと思ってました。
まぁ、そのようになってると思います。
僕の夢は、僕が飲食業に密接に携わることで、多くの人を幸せにすることです。
それがあったので、
僕の就活は、食品メーカーと食品卸売業(問屋)に絞りました。
まぁそもそも皆が泥人形みたいな個性の潰れかたする就活ってやつは何なんだとは思ってました。
まぁ勤めないという勇気はなかったので、説明会に行ったり自己分析をしたりして、より絞った挙げ句、卸の3社のみ受けることにしました。
縁を頂戴したそのうちの1社に入社しました。
が、3ヶ月で辞めることになります。
ものっっっっすごく窮屈だったんですね。
僕は仕事だからって、割り切れなかったんです。
それを毎日感じていて、ある日研修ということで塗り絵みたいなことをやらされて、
俺何してんだ?
ってなって辞めました。
まぁここもだいぶ割愛してます。
で、お世話になった先輩の働く居酒屋に拾ってもらい、お金をいただきながら勉強することになりました。
さらに、縁がありソフトバンクという大企業の端っこにも置かせていただきましたし、全く別で自分でイベントを企画したり、人の仕事の委託を受けたりしたりして、柔軟に社会勉強をさせてもらった貴重な数年がありました。
まぁ26になるまでの数年は社会の許す限りゴンゴンに動きましたね。笑
激動でした。
24歳の時の冬、こんな僕にもスカウトの電話がありました。
命と時間とお金
これらのことを本当に自分の全部で学んだ数年があり、それからの電話だったので、意を決して入社することになります。
今では、この職業を生業にするために俺の数年があったのかー!!!!
とかだいぶ納得してます。
運命ですね。
今、本気で仕事、勉強、できてます。
まぁざっとここまでが第一章。
二章以降は次回以降ですね。
未来を語れる人は素敵だと思ってます。僕は。
そこだけは僕だって素敵なんじゃないだろうか!!笑
語れなくたって、自分のなかで1つ軸がぶっ刺さってれば、強いものを感じます。
好きな人と、親しい人と、親と、兄弟と、
夜少しだけ未来を語れるなんていいじゃないですか。
ほんの少し最近、僕の親友たちと、未来を語りながら飲み明かしました。
叶うとか叶わないとかじゃあお前そーなるように動いてるのかとかどうでもよくて。
本当いい時間。
未来を語る人の眼には、必ずその人の大切な人が映る。
皆強く優しい目で語るよ。
皆が皆を幸せにできるよ!
ちょっと来週ふざけますね。
僕人間観察が好きで、こーゆー人ってこーだよなっていうのがあるので(偏見)、ちょっと綴ります。
ふざけるぞーふざけるぞー!
いつも皆ありがとうございます。
前田 駿
1993年5月16日生 26歳/富山県生→埼玉県育ち
埼玉県立坂戸高校→私立武蔵大学
2016.3 某食品卸売商社→2016.8 (株)SoftBank
→2018.9 外資系金融機関
前田LIFE
世を巻き込み、喜ばせ、死んでいきたいです。 Now or Never.
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